Re: エディット武将の名前について ( No.42 ) |
- 日時: 2006/08/30 09:01
- 名前: 趙蒼
- 彩崇 字:妙弦
彩操の弟で彩操の傭兵軍団最強である第参部隊の統括将軍。第参部隊は彩操の第壱部隊の策略を多用する慎重型とも第弐部隊のような水軍を用いながらの奇襲でもない騎馬兵での速攻型。最高でほんの数時間で戦を終了させた事もあるほどの強さ。 白帝城の戦いの後、戦争中に出会った女性の将軍、名を武臨真、字は賢初と結婚し江夏の町で暮した。
武臨真 字:賢初 蜀の武将で成都の戦いより劉備に仕える。 実際に戦に出たのは成都の戦いと白帝城の戦いあけだがそれぞれ優秀な戦果を上げた。 白帝城で彩崇と出会い結婚する。
孔亮 字:凛統 元々は蜀の兵長だったが、その戦果を劉備に認められ卒伯→副将と出世していき、最後には関羽と並び称えられるほどの将軍になった。 五寸原の戦いで敵中突破を試みたが敵本陣近くで伏兵に襲われ、全身に何十本もの矢が刺さり絶命した。最後まで蜀の天下を思い、死を覚悟して突撃し、戦死したのは魏の諸将たちも惜しみ悲しんだ。
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Re: エディット武将の名前について ( No.43 ) |
- 日時: 2006/09/01 11:47
- 名前: 趙蒼
- 張雄 字:鳳亮
公孫尚の軍団の部隊長兼公孫尚の近衛将軍。 優秀な武将であり、文武良悦の知勇兼備の将。 ↓関頴との一騎打ちでうけた額の傷が、↑趙蒼との一騎打ちの時に痛み出しそれが原因できられた。
関頴 字:子楊 ↑の張雄とは永遠のライバルである、中国各地の義勇軍「阿修羅三昧」の福頭領である。基本的には益州と雍州の間のあたりで活動しており、彩崇の傭兵軍団「魏神・呉帝・蜀覇王」と対立している一団。 相当な武勇で知略にはあまり長けてはいないが、武力で打ち負かす事で計略を阻止する方針で活動している。白帝城に遠征に行ってた所、戦いに巻き込まれ蜀の将軍と間違われ斬られた。
劉客 字:士恩 魏神・呉帝・蜀覇王の若頭領。 こちらは徐州の北部と楊州北東部で活動する。 武勇は関羽なみに、知略は周瑜なみにと中途半端なところもある。 戦を何より嫌い、できるだけ無血で終わらせようとする。 しかし、いざ戦となると才能が開花し勇猛な指揮官ぶりを見せる。 呉の衰退とともに疲弊していき、最後には自然崩壊した。
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Re: エディット武将の名前について ( No.44 ) |
- 日時: 2006/09/05 16:20
- 名前: 焚得
- みなさん凄いですね・・・・
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Re: エディット武将の名前について ( No.45 ) |
- 日時: 2006/09/06 00:33
- 名前: 是臥
- はじめまして
みなさん設定まですごく凝ってますね 俺も昔はオリジナルで作ってたけど、 今は主に小説から取ってきてます。 修羅モードをにぎやかにしたいので、 頑張って10人作りました。
その中から1人 袁琳(北○三国志より) 兜と鎧は重装衣、足は布衣です 色は兜が赤で、鎧・足が黄色 大剣モーションです(小説版馬超の得物を拝借♪) 髪はツインテールで顔は左から3番目 声は「無邪気」です
ま、コレといって背景を設定していないですが、 修羅モードで遊ぶときは馬超探しが命題ですね。 袁紹伯父さんはスルーしますけど(笑)
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Re: エディット武将の名前について ( No.46 ) |
- 日時: 2006/09/08 17:38
- 名前: 趙蒼
- 華義 字:文翼
華雄の兄。武人としての能力が非常に高く、董卓・孫権・曹操・孔融など、いろんな君主から勧誘されたが断固として拒否した。 ただ、諸葛亮との面識があり、劉備に仕官する。 劉備の近衛として戦った。
梁冠 字:聞雀 孫権に仕える若き参謀。 時には陸遜の補佐、時には戦場で輝く二槍流の武将。基本は戦場操作。援軍を呼んだり、落石で敵の退路を断ったりという地味ながらも大役を務めていた。 白帝城で、華義との戦闘になり勝利したものの、帰還途中に背後から矢を撃たれ死亡。
袁姜 袁紹の孫で、甄姫の息子。官渡の戦いの6年前に生まれ、官渡の戦いの、後は護衛武将と共に呉に逃げ15歳で孫権に登用された。初めの頃は本国防衛が主だったが、24歳の時、武将として戦場に出される事になった。 その時、性を趙、名を楊、字を、鳳望と改めた。 白帝城の戦いのときに、黄忠に射殺された。
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Re: エディット武将の名前について ( No.47 ) |
- 日時: 2006/10/01 14:44
- 名前: 趙蒼
- 関誕 字:孔国
関興の弟子で、元の名は亮誕、字が孔李だったため、一文字ずつとり、関興の字からも一文字取った名字にした。 関興が死亡するまでは戦場には出ず、蜀の山中に篭り修行をしていた。関興が病死したとの知らせを聞いた関誕は山を降り、関興の代わりに北伐に出た。しかし、姜維の北伐で退却中突如として行方知れずになり、その後関誕をみたものは誰一人としていなかったという。
厳亥 字:公余 西涼に住む武将で西涼軍の騎督。 韓遂の義父子。厳亥は韓遂の義子で名を韓厳・字を公遂と改めた。その後も韓遂に仕えたが、韓遂が曹操に降る時に馬超に討たれた。
太子義 字:豊保 太子慈の義弟。太子慈が孫策に仕える前から孫策に仕えていた、知勇兼備の武将。周瑜に推挙され孫策がわざわざ太子義の住んでいた荊州と楊州の境目の庵にまで訪ねるほどの賢人だった。だが、太子義は持病を持っていて、合肥の戦いで太子慈が張遼に討たれたその時に、その持病が急に悪化して死んだ。
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Re: エディット武将の名前について ( No.48 ) |
- 日時: 2006/10/08 16:19
- 名前: 趙蒼
- 暇潰しにと思って作ってたら、暇潰し程度ではなくなりましたw
韓良 字:亘璋 韓当の父の従弟の孫で、劉備が義勇軍を興した時、まだ、二十歳だったが義勇軍に志願。 義勇軍で鍛えられ、黄巾討伐をした。 黄巾の乱が治まった後も劉備に仕え、虎牢関の戦いで多大な戦功を上げた事から将軍になった。 夷凌の戦いで陸遜の策にかかり死亡。
法松 字:文直 法正の従兄で張魯の配下文官。 文官とは言っても、知勇兼備の勇将でもあった。 初めは劉璋の配下だったが、劉璋の器の小ささに呆れ張魯の元へ走った。 曹操が漢中攻めをした時、↓の厳真と戦い敗走。 その後、流浪の末に劉備が蜀を取った時に仕官。 劉備が漢中を攻めた時に参戦。厳真を敗走させ、雪辱を晴らした。 第一次北伐の時に病死。
厳真 字:忠興 魏軍に使える勇将。 黄巾討伐から曹操に仕える。 その武は徐晃に匹敵するほどのものだった。数々の戦功をあげ、奮威将軍になった。漢中攻めでは、↑の法松を敗走させたが、逆に漢中を攻め取られた時は法松に負け、敗走。潼関に敗走し、懸命な治療にもかかわらず傷口が何度も破れ、ついには死亡した。
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Re: エディット武将の名前につい ( No.49 ) |
- 日時: 2006/10/24 16:50
- 名前: (・ω・)<小5
- お初です。僕も作ってみました。
武将名:馬勲 蜀に仕える老将。 黄巾討伐の際、既に50歳を超える。 しかし、弓で二百人を射殺す。 そして、虎狼関で呂布を討ち取る。 その後、数々の功績を挙げ、天下一の老将と呼ばれる。 しかし、五丈原の闘いの陣中で突然の心臓発作で死亡する。 享年92歳であった。
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Re: エディット武将の名前について ( No.50 ) |
- 日時: 2006/10/25 19:44
- 名前: 趙蒼
- 上がってきた記念に最新作三人。
朱超 字:光武 建業の城下町に住む鬼才。文武に長け、また、医療術にも優れていたことから町の人々に大変慕われていた。朱超の噂を聞きつけた孫権は朱超が狩に行っている森にまで駆けつけ、必死の説得で配下に加えた。その後は赤壁・夷凌・ハン城・白帝城といろいろな戦場を駆け巡り、鬼のような活躍ぶりを見せるが、友人と話をしている時に以前から恨みに思われていた医療術のライバルに射殺された。 兄に朱蓮・弟に朱興がいる。
朱蓮 字:文政 朱超の弟。智謀なら右に出るものは指を折って数えるほどしかいないと言われた呉の名軍師。 元は劉ヨウに仕え、「劉下に神有」と江東で恐れられた。 孫策はその朱蓮を気に入り、劉ヨウを倒され行く場もなくフラフラと歩いていた所を孫策に声を掛けられ、話しているうちに仲良くなり仕える。 夷凌の戦いでは、朱超と共に戦い、勝利を得た。 しかし、白帝城の戦いで持病の肺炎が悪化し、死亡。
朱興 字:義吟 天下を流浪する吟遊詩人。 ふらりと立ち寄った汝南で劉備に合い、仕官。文官としての能力を遺憾なく発揮する。 赤壁では諸葛亮の補佐として呉に行って活躍する。 しかし、長坂の戦いで戦死。 まだ、39歳という年齢だった。
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Re: エディット武将の名前について ( No.51 ) |
- 日時: 2006/10/27 19:54
- 名前: 趙蒼
- 費志 字:孔崇
曹仁の義弟。費イの実弟。 魏の軍師で奇襲が得意だった。 初めは張繍配下だったが、降伏と同時に荊州に避難。劉表の配下軍師となる。 その後、張繍が再び苑を乗っ取ったという噂を聞きつけ再度張繍の軍師となるが、張繍が再び曹操に降伏したため、「これも天命」と思い、共に降伏。 それからは、雑務を主として働くが、赤壁の戦いで曹操に従軍。周瑜の策略をいち早く見抜くが友人である徐庶と共に西涼の守りを任されたので周瑜の策略を申し出ることが出来なかった。翌年、それが発覚し斬首される。
石丕恵 字:文銘(石丕文銘) キ州東部を中心に活動する山賊の頭。 袁紹が滅ぼされた後、益州北部に陣取る。その後、劉備が蜀を平定した後に南蛮王・孟獲の元に身を寄せるが、孟獲が蜀に降伏した後、荊州南部に移り住む。呉が荊州を支配していたので、しかたがなく仕官。猛威を振るった。劉備が弔い合戦として呉の戦ったときは陸遜に従軍し、猛威を振るった。その時に自らの名前を「廖蘇」字を「孔武」と名乗った。 その翌年に病で死亡。
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Re: エディット武将の名前について ( No.52 ) |
- 日時: 2006/10/28 09:23
- 名前: 秋
- あんまりネタは無いですが
曹浩 元は漢朝廷に仕える猛将。20歳にして、その名は広く知られている。黄巾の乱の際、何進に従って戦場に出る。その後の主、曹操を知ったのはその時である。曹操自身も彼の噂を既に聞いているため、仕官を勧めるが断られる。後、何進が謀殺されてからは放浪の旅に出るが、曹操に再度勧誘され、仕官する。様々な戦いに身を投じ多大な戦果を挙げる。終戦後は放浪の旅をしている時にお世話になり、彼に懐いた張玲と結婚する。 次に・・・。 張玲 こちらも20歳と言う若さながらも曹仁にその才を見出され、曹操軍に仕官する。黄巾の乱の時に曹操の配下として出陣して大戦果を挙げる。なお、その時に一度だけ包囲されていた所を曹浩に助けられる。その後も多大な戦果を挙げ続ける。また、人を見抜く力もあり、曹操に曹浩を勧誘するよう助言したのも彼女である。自身も曹浩を一晩止めたり、傷の手当をするなど世話をする。終戦後は許昌で曹浩と幸せな家庭を築いた。何か反乱があると曹浩と共に義勇軍を結成して、度々鎮圧する。
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Re: エディット武将の名前について ( No.53 ) |
- 日時: 2006/10/28 20:14
- 名前: 趙蒼
- 好きなキャラを育て上げた後はエディット作りに没頭中w
程脩 字:史新 程cの弟子で、夏候淵の腹心。 元の名は法脩、字は史雛という。程cの弟子になり、法脩の「法」を「程」にし、「初めの一歩から新しく踏み出す」という意味を込め、字を「史新」にした。 当時はいただの文官であった司馬懿の智謀に憧れ曹操に仕官。そこで程cと出会う。 司馬懿が頭角を現しだした時に、司馬懿の本心を見抜き司馬懿に対抗するための知略を手に入れるために程cに弟子入り。その知略を磨いた。 しかし、無念にも定軍山の戦いで夏候淵に従軍していて、劉備軍に討たれる。
趙鳳 字:仲尖 蜀に仕える勇将。元は公孫讃に仕え、「キ州にこの人あり」と言われた。 しかし、劉備が黄巾の乱で活躍した事を聞いて、公孫讃の元を離れて劉備を探すたびに出た。しかし、行く先々で「劉備殿は先ほどこの地を去られた。」といわれてなかなか会うことができなかった。そして、月日が流れ自身も諦めようかと思っていた時、泊まっていた街に劉備がやってきたのでそこで仕官。 関羽の副将として活躍する。 麦城で奮戦するも戦死。
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Re: エディット武将の名前について ( No.54 ) |
- 日時: 2006/10/30 19:33
- 名前: 趙蒼
- 嘉毅 字:峰蓚(ホウシュウ)
西涼の大富豪嘉家の5代目。 馬超に仕え、その富で兵糧などの支援をした。 また、仁者でもあり、貧しい人々には惜しみなく資金を分け与え、病の者には薬を贈った。 いつもにこやかで、馬超の軍師として尽力した。 馬超が張魯に降る時に、西涼に残り5年後、病死。
趙梁 字:孟獅 元の名は、「経祖」字は「志獅」 交州の豪族「士ショウ」の補佐。 徳に溢れた人物で江東・益州では有名な人であった。 仕官後7年で辞任し、流浪のたびに出る。そこで劉備と出会い、趙鳳と共に仕官。趙鳳と義兄弟の契りを結び、名を「趙梁」、字は「統積」に変更した。また、梁は彼が敬愛する士ショウ配下の猛将、呂正、字は梁武の字から取ったもの。また、字の孟獅は同じく士ショウ配下であった孟叡の字から取ったもの。 趙鳳が麦城で包囲され、窮地に陥ったときに助けに行くが、時既に遅し。趙鳳諸共討ち取られた。
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Re: エディット武将の名前について ( No.55 ) |
- 日時: 2006/12/17 13:07
- 名前: 趙蒼
- 目指せ1ページ制覇w
姜尚 字:子夷(シイ) かの有名な「姜子牙」の子孫といわれる。 徐庶に弟子入りし、徐庶の手伝いをした。 徐庶が曹操の元に行くとき、劉備軍から抜け、劉璋に仕官。 益州南方の守備を任される。 南蛮王に会いに行ったとき風土病にかかって死亡。
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Re: エディット武将の名前について ( No.56 ) |
- 日時: 2007/01/04 14:11
- 名前: 趙漫漫
- 趙漫漫
字・・朗 常山生まれ 同じ常山生まれ趙雲の配下 趙雲とともに、君主「公孫サン」に仕えた だが、袁紹に、攻められて、「サン」は死亡。 その戦で、加勢にきた劉備の配下になる。 長坂では、劉備の子、阿妬を救う。 赤壁の戦いでは、泣く子も黙る猛将「張遼」 を討ち取る。曹操の陣営では、「張遼」が討ち取られた事を聞き動揺したという。曹操軍が動揺 している時東南の風が吹き始めた。そして、 呉将「黄蓋」の火計で勝利した 赤壁逃亡戦では逃げる曹操軍を追撃し、撃退した。 夷凌では、鈴の甘寧を、ぐちゃぐちゃにして殺した 234年白帝城、趙雲は病死。劉備も病死した。 超漫漫は「呉軍全軍をほろぼせ」と発言したと言う。超漫漫は本当に雑魚兵一人残らず、撃退した。 五丈原では蜀軍が、大苦戦していた。 諸葛亮の妻「月英」の「木牛」で、危機を、逃れた だが魏軍の勢いは、凄まじい。「木牛」と「月英」 は夏候覇軍に討ち取られた。諸葛亮も病で死亡した。蜀軍は「魏延、超漫漫、キョウイ」 だけ。諸葛亮の後をついだのは「キョウイ」 だが、「魏延」は魏に投降した。超漫漫は、 曹仁軍を攻めた。だが、曹仁と対決 162合目に、「趙漫漫」は、討ち取られた。 234年「趙漫漫」は討ち取られた
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